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I was deeply impressed with ...


Jimmy Floyd Hasselbaink
2005.04.10
ジミー・フロイド・ハッセルバインク(182cm、86kg、1972年3月27日スリナム生まれ、オランダ国籍 )
パワーおよびスピードを兼ね備え、撃つことを恐れないストライカー。コンパクトにシュートを放ったり、中盤から振り抜く豪快なシュートは圧巻だ。ボールを蹴る時の「ボンッ!」という音を聞くだけで威力が分かる。
彼のキャリアは1990年、オランダのテルスターで始まっているが、花開いたのは96-97シーズンに移籍したボアビスタ以降であろう。ボアビスタ在籍中、彼の母は「ゴールの前の肉食動物」と呼んだとか。以来、常に安定したパフォーマンスを見せ、ボアビスタでの1997年にポルトガルカップ優勝に貢献、98-99シーズンのリーズ在籍時に18ゴールで得点王を獲得。00-01シーズンはチェルシーで23得点をあげ、2度目の得点王に輝いた。01-02シーズンも23ゴールを挙げたがアンリに1ゴール及ばなかった。以後、2シーズンチェルシーに在籍し、2桁得点を挙げている。04-05シーズンからモウリーニョ監督の構想外となり、ミドルスブラに移籍した。
オランダ代表歴もあり、1998年5月27日カメルーン戦でデビュー以来、18試合で7ゴールをあげている。ナショナルチームでの現状はベンチスタートが多かったようだ。疑いもなく得点能力に長けた彼であるが、ほとんどのオランダ人監督は単なるゴールよりももっと多くをフォワードに望むのである。つまり、ルート・ファン・ニステルローイが持つ巧妙なボールコントロールや技術が不足していると見られているらしい。オランダのファンもまた、彼のパワフルなスタイルよりも、いわゆる「Total Football」を好むのでしょうか…。しかし、極めてパワフルなシュート力、フィジカルを持っているハッセルバインクは、あらゆる角度、距離からゴールを狙い、すぐにゲームを混乱させることができるプレーヤーです。

90-91 テルスター 4試合 0得点
     AZ      11試合 2得点
91-92 AZ     26試合 2得点
92-93 AZ      9試合 1得点
 Campomaiorense −試合 −得点
93-94Campomaiorense −試合 −得点
94-95Campomaiorense −試合 −得点
95-96Campomaiorense 31試合 12得点
96-97Boabista    29試合 20得点
97-98Leeds United 33試合 16得点
98-99Leeds United 36試合 18得点
99-00Atletico Madrid 34試合 24得点
00-01Chelsea    35試合 23得点
01-02Chelsea    35試合 23得点
02-03Chelsea    36試合 11得点
03-04Chelsea    30試合 12得点
04-05Middlesbrough 29試合 11得点
                    (2005/4/10現在)


David Seaman
2004.1.17
元イングランド代表GKデイヴィッド・シーマン(191cm, 93kg,1963年9月19日生)が1月13日、20年以上に渡るキャリアにピリオドを打った。40歳のシーマンはマンチェスター・シティーの公式サイト上で「難しい決断だったけど、家族や、私が信頼しているサッカー関係者と何度も話し合って決めた」と話し、「こういうケ)は、すぐには完治しないものなんだ。だから、契約どおりシーズン終了まで待っているより、引退するほうがいいと思った」、「最高のレベルで、すばらしいキャリアを過ごせたよ。次の役割のためにも、まずは肩を治したいと思う」とも話した。そして「私のキャリア、特に厳しかったときに支えてくれた全ての人々に感謝したい。選手たちのプロ意識と友情、そして試合に情熱を与えてくれたファンの皆様に感謝したい」とコメントした。
 
また、その輝かしいキャリアを終える前に、シーマンはマンチェスター・シティーに対し、自らの代表のポジションを奪ったデイヴィッド・ジェームスを獲得するように要請したという。そしてケヴィン・キーガン監督は14日、ウェスト・ハムからデイヴィッド・ジェームスの獲得に成功した。「引退を決めた後、デイヴィッド・ジェームスを推薦するのは喜びであった」と語ったシーマンは、「このポジションはこれで安泰だ」と付け加えた。なんとも素晴らしい去り際である。
アーセナル在籍時のシーマン

2002年W杯、対ブラジル戦。ロナウジーニョに不本意なFKを決められ、惜しくもベスト8で敗退。各メディアから非難を浴びた。
しかし、「ミスターセイフハンド」とも呼ばれた彼は間違いなくイングランドのサッカー史上最高のゴールキーパーの一人である。
シーマンのキャリアは1981年にリーズ・ユナイテッドで始まった。しかし、一軍で起用されることなく、ディヴィジョン3のピーターボロウに放出される。そこで84-85シーズン途中まで在籍し、バーミンガム・シティーへと移る。2年間在籍したシーマンは、バーミンガムを当時の1部リーグに昇格させる原動力となった。86-87シーズンからは活躍の場をクイーンズ・パーク・レンジャースに移し、才能を大きく開花させた。そして1990年5月18日、ジョージ・グラハム監督によって、GKとして当時の最高額である130万ポンドでアーセナルに引き抜かれた。シーマンは、グラハム監督が率いたアーセナルの「伝説の守備陣」の一員として、ハイバリーでの1年目にリーグ優勝を飾る。その後、2度のプレミアシップ優勝、4度のFAカップ優勝、リーグ・カップ優勝、そして欧州カップ・ウィナーズ・カップなど、数々の栄冠を手にしてきた。2003年4月には、イングランドのサッカー史上わずかに3人目となる1000試合出場(クラブ、代表)を達成。アーセナルでは564試合の一軍出場(クラブ歴代GKに200試合以上の差をつけて)を果たし、うち235試合が完封試合であった。02-03シーズン終了後、契約切れからベンゲル監督よりGKコーチとして就くよう慰留されていたが、現役続行を決意しマンチェスター・シティへ移籍した。マンチェスター・シティーではリーグ、カップ戦で合わせて26試合に出場した。2004年1月10日のポーツマス戦で13分間プレーし、肩のケガで退いたのが最後となった。
ングランド代表デビューは、クイーンズ・パーク・レンジャース時代の1988年11月16日、サウジアラビア戦であった。優秀なGKを輩出するイングランドにおいて通算75キャップを誇る。
準決勝まで勝ち上がった1996欧州選手権では最優秀ゴールキーパーに選出され、その活躍を評価されて大英帝国第5級勲位を与えられた。
ワールドカップでは1998年、2002年と2大会連続で全試合に出場を果たした。イングランドサポーター、サッカーファンにとっては2002年ワールド杯、準々決勝ブラジル戦での痛恨のミスは今もな忘れることができないだろう。


ベッカムに慰められるシーマン

Claudio Taffarel
2003.9.27
元ブラジル代表GKクラウディオ・タファレル(180cm、74kg、1966年5月8日生 )が2003年9月26日、現役引退を表明した。
パルマとの契約が02-03シーズン限りで終了し、03-04シーズンはエンポリから1年契約をオファーされ、当初は入団に合意していた。しかし、契約に向かう途中に車が故障し、土壇場で考えを改めたという。「エンポリへの加入は私が求めていることではないと気づいたんだ。移籍しても気持ちにわだかまりを感じてしまうので、オファーを断ることにした。サッカーを続けたいとは思っていない。引退は、特に自分の子供たちのことを考えて決めたんだよ」とコメントした。タファレルはこのままパルマに留まってレストランを開きたいと思っているらしい。
小柄ではあるが、ボールへの反応は素晴らしく、安定感のあるGK。彼のキャリアはブラジルの名門インテルナシオナルにて始っている。1990年W杯での活躍から注目を浴び、パルマへ引き抜かれる。パルマではコッパ・イタリア優勝(91-92)、欧州 カップ・ウイナーズ・カップ優勝(92-93)に貢献した。その後レッジーナ(93-95) アトレチコ・ミネイロ(95-98)を経て1998年ガラタサライに入団した。欧州での進境著しいガラタサライでトルコクラブ初のUEFAカップ優勝(99-00)に大きく貢献、国内リーグでも98-99、99-00と連覇を果たし守護神として活躍した。01-02シーズンより古巣パルマへ復帰、出場した際には衰えを見せない安定したセービングを見せた。
1994W杯アメリカ大会優勝の瞬間。PKを外してうなだれるバッジョと歓喜のタファレル。名シーンです。
代表デビューは1988年7月7日オーストラリア戦。1990年W杯ではベスト16に終わったものの、1994年大会決勝ではイタリアと対戦。PK戦にもつれ込んだがマッサーロのシュートを止めるなど、6大会ぶりの母国の優勝に大きく貢献した。その後一時代表を離れるが名匠ザガロが、彼の経験を買って代表に復帰させると、4年後のフランスW杯に出場。準決勝オランダ戦での PK 戦では2本のスーパーセーブを見せた。しかし決勝では0対3とフランスに敗れ、涙をのんだ。
90年代のブラジルを支えた守護神は3大会すべてにレギュラーとしてフル出場、通算18試合出場はGKとしては最多記録である。

1990大会 4試合 2失点
1994大会 7試合 3失点
1998大会 7試合 10失点




写真はセリエAのインテル在籍時のもの。インテルでは4年間在籍し18ゴールをあげた。その前所属チーム、レアルマドリードでは4年間で77ゴールをあげている。
Ivan Luis Zamorano Zamora
2003.7.21
元チリ代表FWイバン・サモラーノ(178cm、72kg、1967年1月18日生)は滞空時間が長く、強力なヘディングシュートを武器に数々のファインゴールを記録したチリの生んだスタープレーヤーである。1998年フランスワールドカップでは、サラスとの「Za-Saコンビ」と言う強力な2トップを構成し、自らは得点はなかったもののチャンスメーカーとしてグループリーグ突破に大きく貢献した。シドニー五輪にもオーバーエイジ枠で出場し6得点を記録して大会得点王に輝き、チームの銅メダル獲得に大きく貢献した。スペインリーグでキャリアのピークを迎え、セビリア、レアル・マドリードに在籍した6年間で98ゴールをあげた。インテルに4年在籍後、メキシコリーグのアメリカを経て、幼き頃からの夢でもあり、亡き父との約束でもあった母国名門コロコロへ加入する。 2001年秋には母親、大統領の見守る中真紅の代表ユニフォームに身を纏い、代表引退試合が行われた。そして2003年7月18日、同国のリカルド・ラゴス大統領同席のもと、大統領官邸で現役からの引退を正式に発表した。
あくなき闘志でピッチを駆け抜け、ゴール前で宙を舞った情熱の男は「監督を目指すつもりはない」、「慈善活動を積極的にやっていきたい」などと引退後の将来をここ数年よく語っていた。自身の言葉通り、サッカーだけではなく、ユニセフ・チリ大使に就任したり、『サモラーノ基金』を設立したりした。これはスポーツや教育を通じて子供達の能力を啓発し平等に機会を与えることを目的としたものである。組織の運営にかかるコストの一部をサモラーノが負担するそうだ。国民の人気も高く、名実ともにチリの英雄である。今後のご活躍を祈願します。

ちなみに、マドンナが「もっとも抱かれたい男」とコメントするほど南米一、セクシーなプレーヤーとしても知られている。


2003年7月18日、大統領官邸で行なわれた現役引退発表にて。


サモラーノは大統領官邸で行なわれた現役引退発表で「サッカーに別れを告げるため、これまでのキャリアのなかで最も重要な決断をした。今から新しい人生が始まる」と心境を述べた。そして「どのチームでプレーしてても、チリ人であることを忘れたことはなかった。代表は私に大きな幸せをもたらしてくれた。常にチリ大使のような考えを持っていたんだ」と母国への愛を語った。

ラゴス大統領は「サモラーノには目指すべき新しいゴールがある。大切なのは常に次のゴールだと彼は言っていたよ。ゴールに到達するのは簡単なことではないと思う。でも、我が国に大きな貢献をもらたらしてくれるだろう」と英雄の新たな船出を祝った。

そんな英雄も・・・
インテルに所属していた当時のこと、新シーズンに向けロナウドが移籍してきた際に、これまでつけていた背番号9を譲りたくないとして背番号18の1と8の間にちっちゃい「+」を付け「1+8」=「9」としていた
そうです。オチャメですね。っつーか意地?プライド?
2003年12月22日、サモラーノの引退試合がチリのサンティアゴで行なわれ、ブラジル代表FWロナウドや元コロンビア代表MFバルデラマ、元パラグアイ代表GKチラベルなどが参加。サモラーノの現役ラストマッチに花を添えた。国立スタジアムに約6万人ものファンを集めて行なわれた試合では、チリ人チームと外国人チームが対戦。サモラーノは前半、インテル時代のチームメイトであるロナウド、アルゼンチン代表MFサネッティ、コロンビア代表DFイバン・コルドバなどとともに外国人チームでプレーし、後半はチリ人チームの一員としてピッチに立った。参加した選手はみな、サモラーノへ敬意を表し、背番号『9』を身に付けてプレー。開始5分にロナウドのアシストで現役最後となる先制ゴールを記録したサモラーノは、その1分後にはロナウドのゴールをお膳立てし、ファンを喜ばせた。なお、試合は5対2で外国人チームが勝利した。試合後、サモラーノは「魂をピッチに捧げた選手として、それに『いい奴だった』と覚えていてもらえればうれしいよ」とコメントした。 引退試合で目を潤ませるサモラーノ(37)

    

03-04シーズンから新スタジアムに移るマンチェスターCにとって、メインロードでのラストゴールとなった4月21日のサンダーランド戦でのゴール後のシーン。
Marc-Vivien FOE
2003.6.26
コンフェデレーションズカップ準決勝のカメルーンvsコロンビアで、試合中に突然倒れ、帰らぬ人となったカメルーン代表MFマルク・ヴィヴィアン・フォエ。フォエ(194cm、84kg、1975年5月1日生まれ)はカメルーン代表としてキャップ数65、1994年、2002年と2度のW杯を経験。クラブチームではウェストハム、ランスなどでプレーし、02-03シーズンは期限付き移籍していたイングランドのマンチェスター・シティで、35試合で9ゴールをマークする活躍を見せていた。なお、マンチェスター・シティに移籍する02年までの2年間、奇しくもフォエはこの日の試合会場となったスタッド・ジェルランを本拠とするリヨンでプレーしていた。長いリーチを活かして敵からボールを奪い、即座に前方へ供給する。彼の出来、不出来がそのまま結果に直結するとも言われていた。攻守両面において絶大な存在感を見せていた。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
2002-03シーズンの所属チームだったマンチェスター・シティは、フォエが付けていた背番号23を永久欠番とすることを明らかにした。
 
写真はフォエを偲んだサポーターがメインロード正面ゲートに供えた花やクラブユニ。

マンチェスター・シティのケヴィン・キーガン監督
「マルクはプレーヤーとしてだけでなく、人間としてもすばらしかった。あの笑顔と人柄を思うと……。これまで順調にキャリアを重ね、チームメイトやスタッフ、フロントの誰からも愛される最高のプロフェッショナルだった。常に100%の力でクラブのために尽くしてくれた。02-03シーズンを9位で終われた原動力だったね。また彼と一緒にやりたかったから、期限付き移籍を完全移籍にしようと交渉を進めている途中だったのに」
「残されたマルクの奥さんや子供たちのことが、気がかりだよ。うちもできるだけのサポートをしたいと思っている」

マンチェスター・シティのジョン・ウォードル会長
「マルクへのファンの気持ちが表れているよ。みんな、悲報を聞いてすぐにここ(メインロード)に集まってきたんだ。彼がどれだけファンに愛されていたか分かるだろう?」
03コンフェデレーションズカップ決勝戦の試合後にはカメルーン、フランスの両チームの選手たちがフォエの遺影を掲げ場内を歩いた。次回からコンフェではフォエの名にちなんだ名称になることも検討されているとか。